正保四年(1647)、京の座本坂田市右衛門の子として生まれる。通称坂田伊左衛門、俳名冬貞。最近「長政」と呼ばれていたことも判明した。花車方の杉九兵衛や能小鼓の骨屋庄右衛門らの教えを受けて修行する。延宝六年(1678)、大坂新町の遊女夕霧の死を脚色した『夕霧名残の正月』で夕霧の客藤屋伊左衛門を演じて大当りを取り、年内に4度、回忌ごとに上演を繰り返し、生涯に18度演じる当り役となる。元禄六年(1693)『仏母摩耶山開帳』以来近松の作品に主演し、近松とは役者の立場、作者の立場を尊重し合う名コンビとして、『けいせい仏の原』『けいせい壬生大念仏』などを世に送り出した。 藤十郎の本領は、高貴な人物が町人や職人などの姿となって見せる「やつし事」で、特に後に和事と呼ばれる芸を完成した。すなわち、零落した若殿が粗末な紙子姿でおおらかな風情を失わず、遊女との恋愛模様を座ったまま身ぶり手ぶりよろしく長々としゃべり、また相手との口舌や愁嘆を見せる傾城買いを中心とするもの。藤十郎は、人間の真実を描く意味での写実的演技を確立した名優で、各種芸談にその姿をとどめている。元禄九年度(1696)〜十三年度(1700)には一座の興行責任者である座本を勤め、芝居作りに励むほか、役者への出演交渉や公儀との掛合いなどにも走り回っている。このころが役者としての最盛期で、次第に病気がちとなり、宝永六年(1709)63歳で没した。 |
四代目 坂田藤十郎(1931〜)
本名林宏太郎。屋号山城屋。昭和6年(1931)12月31日、二代目中村鴈治郎の長男として京都に生まれる。同16年(1941)10月、大阪角座で二代目中村扇雀を襲名し、初舞台。同24年(1949)12月、第1回武智歌舞伎に参加し、武智鉄二氏の薫陶を受ける。同28年(1953)8月、『曽根崎心中』の天満屋お初で注目され、扇雀ブームが起こる。歌舞伎のほか、映画や東宝歌舞伎、コマ歌舞伎など多彩な分野でも活躍。同56年(1981)11月、「近松座」を結成。平成2年(1990)11月、東京歌舞伎座で三代目中村鴈治郎を襲名。平成17年(2005)11月30日、京都南座で四代目坂田藤十郎を襲名。日本芸術院会員、文化功労者、重要無形文化財保持者(人間国宝)。紫綬褒章、日本芸術院賞、芸術選奨文部大臣賞ほか受賞多数。 立女形から娘役までの女形の役々、立役も本領とする和事から生締、敵役まで幅広く演じ分ける。アメリカ、ロシア、イギリス、韓国など海外公演も多く、『曽根崎心中』のお初で絶賛を博している。 |
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